快晴が、突然雨になります。よく解りませんが、低気圧と高気圧が交互にやってくるからのようです。それに逆らうことなく、「晴耕雨読」を楽しんでいるところです。

先ごろから、「SERENADE/SCHUBERT」に挑戦しているところです。「身の程」も弁(わきま)えず、です。

実は、先般、「TAB譜」を入手します。これは、通常の「五線譜」が読めなくても、ギター未熟者が最初の第一歩を踏み出し易い(といわれる)、「ギター専用」の「譜面」のことです。

ギターは、「同じ音」を数か所の「ポズィション」で弾くことができます。逆に、(一般的な)楽譜の音符を、「第何弦の何フレット」で弾くかに迷うのです。「TAB譜」には、それが記されているのです。素人には有力な「助っ人」です。

とはいうものの、「どの弦の、どのフレット」を弾(はじ)くかを理解することと、それに応じた「指のコントロールができる」ことは別の世界です。これは、ピアノや三味線はじめ、多くの楽器に共通するようです。

演奏には考えることなく、「フレット」を「無意識に抑える」ことが望まれます。当初、お稽古の「ノルマ」を「1日1小節」と設定しました。しかし、この「1日1小節」は意外に高い「ハード」です。「1小節」は「12~13ほど」の音符で構成されています。何百回繰り返しても、「体」が覚えてくれないのです。

その、途方もない課題に誘う原動力は、或いは、「和音の魅力」とともに、「老いの意固地さ」から生まれているのかも知れません。今日までのポズィションの確認は、20小節までです。残すところ60小節です。

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2022/11/01(火) 12:27

秋、です。晴れ、曇り、雨、が不規則に織りなします。「冬支度」に迫られています。しかし、いつも、「作業日和」はこれからもある、を口実に、日延べになります。


先日の「カホンづくり」で、その一部に、「山桜の皮」を貼り付けてみました。いわゆる、「樺細工(かばざいく)もどき」です。それが、意外にも「和(なご)みの演出」になったようです。その気になり、あらためて、「山桜の皮」をテーマにしてみます。

実は、「樺細工」も、昔からやりたかった課題だったのです。これまで躊躇(ちゅうちょ)したのは、「皮の取り出し方法」が解らなかったからです。最近の、「何でも教えてくれるWEB時代」であっても、素人には難問です。それは、肝心の「舞台裏」には触れていないからです。

結局、「力技(ちからわざ)」で解決することにします。問題は、如何に薄く「表皮(樹皮)」を「剥ぎとるか」、です。まず、2~3日間、水に浸けます。その後、「表皮」と「内樹皮」の間に小刀(こがたな)を刺し込み、剥(は)がします。

しかし、その結果の殆(ほとん)どは、使うことのできないものです。「貼り付ける」には「厚すぎる」のです。結局、再度、小刀を「スクレーパー(scraper)」として削ってみます。しかし、それでも不満足です。最終的には、「ベルトサンダー(belt sander)」に頼ることになります。



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2022/10/30(日) 10:20
久しぶりの青空です。間もなく雪を迎えるこの機には、すべきことがたくさんあります。そのひとつが、「漬物(つけもの)」です。今日は、その「イントロダクション」です。

昨日、遠方の「道の駅」から、「漬物用」の「ダイコン」、「赤カブ」、「タカナ」、「ハクサイ」等を求めてきました。

「漬物作業」には、数年前から参加しています。「タカナ漬け」は、「二段階」を踏みます。まず、「洗い」、「二日ほど乾かし」、その後「塩を塗(まぶ)し」、「重石(おもし)」をし、数日置きます。

次が「本漬け」です。「水気を切り」、新たに「塩」を加えながら「鷹の爪」とともに「漬け込み」ます。頂くときは、適度に「塩抜き」します。「牛タン」の「老舗(しにせ)」の多くでは、見事な味の「タカナの漬物」を提供してくれていました。

「野菜」は、「干す」ことで「美味しく」なる、といわれます。「ダイコン」は2週間ほど干した後に「糠(ぬか)漬け」の予定です。他方、「ハクサイ」は、「数時間」干した後に「漬け」るのが一般的のようです。しかし、我が家では、「干す」ことなく、即、「塩漬け」にしています。


工作室では「網鬼灯(あみホオズキ)づくり」です。子供じみた、そして唐突な課題です。実は、昔、やり残した課題であったのです。60年ほど前、これを「アジサイの葉」でやろうとしたことがありました。

しかし、結果は、途中でギブアップ(give up)でした。理由は、「葉肉?」が腐るまで待てなかったのです。或いは、時間がなかったのかも知れません。他方、今回は、毎日が日曜日です。「透かし鬼灯(すかしホオズキ)」で「仕切り直し」することにします。

既に、3週間ほど前に「水浸け」しています。今日の作業は、「腐肉の削除」からです。「葉肉」は溶けかかっていますが、「葉脈」は、意外にガッシリしています。使い古しの「歯ブラシ」が活躍します。「ぬるま湯」で、数度洗い、乾燥させて完成です。

「鬼灯の実」は、おどろくほど「艶(つや)やか」です。「アジサイの葉」の場合は、これを、「骸骨の葉」・「スケルトンリーフ(skeleton leaf)」というようです。

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2022/10/28(金) 09:44
寒くなりました。数日前に発見した狭庭(さにわ)の「平茸(ヒラタケ)」が一回り大きくなっています。多くの人が、『ヒラタケは、大きくしてから収穫する。』と言います。もう少し、「見守る」必要がありそうです。


工作室では、依然として「カホンづくり」です。今日の課題は、「微?調整」です。専門用語はわかりませんが、「拙い箇所」の「手直し」に違いは無さそうです。

実は、材には、「山桜」を製材したものを使っていますが、場所によっては、「完璧」でない部分もあります。それは、既に製材時点からあったものや、加工中の事故によって生じた「瑕(きず)」や「割れ」等です。

ある意味では、それが「自然」であるとも言えそうです。しかし、「ドギツイ」箇所には「手当」が必要とも思えたのです。

しかし、問題は、その「方法」でした。当初考えたのは「埋木(うめき)」でした。これは、事情のある部分に、別の材を「埋め込む」方法です。しかし、結局、「樺貼(かばはり)」にします。

「樺」は「白樺(しらかば)」ではなく「桜」の「表皮」のことです。「樺細工(かばざいく)」は、これを薄くして貼ったもののようです。今回の企ては、謂わば、その真似事と言えそうです。勿論、初めての試みです。勇気を奮って挑戦してみます。

結果は、「ドギツイ」箇所が「自然の姿」に覆(おお)われます。「我が意を得たり」です。



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2022/10/25(火) 10:17
「茸(キノコ)」の時季を迎えました。狭庭(さにわ)の隅(すみ)にも「生(な)って」います。普段、「目もくれていない」場所に、「平茸(ヒラタケ)」が「グジャグジャ」出始めています。

即、友人からいただいた「シイタケ」、「シメジ」、「サモダシ」、「カマボコ」、「ヒラメ」、そして「イタフ(板麩)」、「ミツバ」等の「吸い物」で頂きます。「良きかな。」です。


このところ、「木工」に加えて「ギターのお稽古」にも「血道をあげて」います。当面の課題は、「SERENADE/SCHUBERT(シューベルトのセレナーデ)」です。

極めて曖昧ですが、この曲は、NHKラジヲ番組、吉川英治の「宮本武蔵」の背景音(BGM)に使われていた記憶があります。70年ほど昔のことです。近年では、「美智子上皇后陛下」が、時折演奏されています。それに挑もうとする目論見(もくろみ)です。

手持ちの「楽譜」は、「ギターバージョン」で、「TABつき」です。「80小節」あります。当初、これを演奏することは無理と思っていました。しかし、毎日が日曜日の老後です。「1日1小節」のノルマでも、数ヶ月で「暗譜」できそうに思えたのです。その計画を頼りに、お稽古することにしました。

その結果、一週間前ほどからから始めて、現在「15小節」まで弾けるようになりました。因みに、お稽古の内容は、その「1小節」を何度も繰り返し、体に覚えさせる方法です。慣れない「運指のフレーズ」では、同じことを数百回ほども繰り返すことになります。


駐車場脇の「蒔き遅れたダイコン」は、「本葉」を見せ始めています。とはいうものの、「本物の大根」は、近日中に入手することになります。

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2022/10/23(日) 16:11
中学生の頃、社会科のM先生が、『君死にたまふことなかれ』を朗読しました。それは、年度末の、まだ雪のチラつく頃でした。しかも、間もなく「終業ベル」の鳴る時刻だったことを思い出します。

「気合」の入った、「息せききった」ような朗読でした。おそらく、「指導計画案」に載っていない講義だったのでしょう。その講義を今も忘れることができないでいます。


『あゝをとうとよ君を泣く 君死にたまふことなかれ 末に生れし君なれば 親のなさけはまさりしも 親は刃をにぎらせて 人を殺せとをしへしや 人を殺して死ねよとて 二十四までをそだてしや

堺の街のあきびとの 舊家(旧家)をほこるあるじにて 親の名を繼ぐ君なれば 君死にたまふことなかれ 旅順の城はほろぶとも ほろびずとても、何事ぞ 君は知らじな、あきびとの 家のおきてに無かりけり 君死にたまふことなかれ

すめらみことは、戰ひに おほみづからは出でまさね かたみに人の血を流し 獸の道に死ねよとは 死ぬるを人のほまれとは 大みこゝろの深ければ もとよりいかで思されむ

あゝをとうとよ、戰ひに 君死にたまふことなかれ すぎにし秋を父ぎみに おくれたまへる母ぎみは なげきの中にいたましく わが子を召され、家を守り 安しと聞ける大御代も 母のしら髮はまさりぬる

暖簾のかげに伏して泣く あえかにわかき新妻を 君わするるや思へるや 十月も添はでわかれたる 少女ごころを思ひみよ この世ひとりの君ならで あゝまた誰をたのむべき』


朗読を終えたM先生は、『私が社会科の教師になったのは、次代を担う皆さんに、この詩を歌いたかったからでした。』と、語りました。戦場に散る若人の「鎮魂歌」であり、理不尽への訴え、だったのです。今から60年昔のことです。しかし、昨日の出来事よりも、鮮明に残っている記憶です。100年ほど前の「晶子の歌」は、まさしく、「夜霧のかなたに別れを告げて・・・。」の代弁だったことになります。

2022/10/20(木) 14:03