ここ数日、明るく穏(おだ)やかな日です。10日前、雪で折れた「枝」を室内に持ち込み、「瓶〈びん〉」に挿(さ)しておきました。その枝から「芽」が出始めています。
果樹の枝だったようですが、何の「果物」であったかは完全に失念しています。それでも、「春」を感じさせてくれています。
年甲斐(としがい)もなく、そして、ほぼ、実現の叶(かな)わなそうなものの、「第2回 お寺deコンサート」の準備をしているところです。演奏曲目に悩んでいるところです。
「第1回目」のご来場者の多くは、ご高齢のご婦人方でした。今回もそうなるのでは、の予測で「選曲」しようとしています。
その候補の一つが「荒城の月」です。70年ほど前、小学校で習った歌です。今はどうか解りませんが、当時は、日本中の誰もが歌える歌でした。
しかし、その歌詞の意味、となると、今もって頓珍漢(とんちんかん)です。流石(さすが)と思える土井晩翠〈どいばんすい〉の世界なのです。この機に、あらためてその世界を探(さぐ)るべく、何でも知っているWEBにお聴きしてみました。
「荒城の月」・・・1901年(明治34年)。作詞 土井晩翠 作曲 瀧廉太郎。
1番、「春高楼の花の宴 めぐる盃(さかづき)かげさして 千代の松が枝わけいでし 昔の光いまいづこ」は、「時」は「桜」の頃、「場所」は「見晴らしのよい部屋」、「席」は友人知人等の観桜の集まりのようです。
「巡 (めぐ)るさかづき」は、「杯をまわしながら飲んでいる様子」。「かげさして」の「かげ(影)」には、一般的には次の意味がありそうです。
① 光の反対側にできる黒い像。
② 水や鏡に映る形やもの。
③ 眼に見える姿や形。
④ 思い浮かべる人の顔や姿。実態の無いもの。
⑤ 兆候。
⑥ つきまとって離れないもの。
しかし、古語ではそれらとは異なり、「日、月、星、ともしび」などの「光」の意味が優先されます。土井晩翠も「かげ」を「光」として使っています。
「めぐる盃影さして」は、「酒に満たされた盃に月の光がさしている」、となりそうです。これは、紫式部日記「めずらしき光さし添ふ盃は持ちながらこそ千代もめぐらめ」の引用の気配もします。
「千代の松ヶ枝」は、「古木(年代を経た太い)の松の枝」は、「密集している松の古木の枝葉」のようです。「千代の松ヶ枝わけいでし」は「(月光には)密集している松の枝葉を縫(ぬ)うほどの力があり」で、「昔の光いまいづこ」は「あれほど力強かった月の光は、今は何処(どこ)へ行ってしまったのか」。となりそうです。
余談ながら、「追憶」(スペイン民謡、訳詞古関吉雄)の(星影優しく瞬くみ空に…)の「星影」の「影」も「光」として使われています。また、SEN氏の「星影のワルツ」の「かげ」、時代劇の「月影兵庫」の「つきかげ」、日本刀の刃紋の「月影(つきかげ)」等も、「光」として使われているようです。
2番、「秋陣営の霜の色 啼(な)き行く雁(かり)の数見せて 植(う)うるつるぎ(剣)に照りそひし むかしの光 今いづこ」も、一番の「春高楼の・・・」と同様のようです。
場景は、「・・・雁の数みせて」と「植うるつるぎに・・・」で、秋の「出陣前夜」、と推察できそうです。
『霜の色 啼き行く雁の数見せて』は、「霜に反射した月の光は、啼〈な〉きながら空を渡る雁までもクローズアップするほど皎々(こうこう)としている。」となりそうです。
「植うる剣に照りそいし」は、「気勢を挙げている兵士がかざしている剣や槍の穂先、鉄砲の銃身等に月光があたっている。のようです。
「昔の光いまいづこ」は、一番同様、「あれほど力強く煌々(こうこう)としていた月の光は、今は何処(どこ)へ行ってしまったのか」。です。
3番、「今荒城の夜半(よわ)の月 変わらぬ光 誰(た)がためぞ 垣に残るはただ葛(かずら) 松に歌う(うとう)は ただ嵐」は次のようです。
「今は荒れてしまった城にも、月の光は昔と同じように射(さ)している。月は誰のために照らしているのだろうか。」となりそうです。
「垣に残るは ただ葛(かずら)」の「垣」は「石垣」あるいは「垣根」のようです。そして「松」は、「いつも緑」であることから「繁栄の象徴」の役割として使われています。これらから、全体の訳は次のようです。
「意気盛んだった頃と違い、今の城は閑散としている。本丸の石垣(垣根?)は手入れがされていなく蔦(つた)が絡んでいる。その荒れた城には、今は、ただ松を縫う風が蕭々(しょうしょう)と吹いているだけだ。しかし、煌々(こうこう)とした月の光は、昔と同じように、荒廃した城を照らしている。月は誰のために輝いているのだろうか。」、となりそうです。
4番、「天上影は変わらねど 栄枯(えいこ)は移る世の姿 映(うつ)さんとてか今もなお ああ荒城の夜半の月」にも「かげ」が使われています。この「かげ(影)」をこれまで通り「ひかり(光)」と訳すと、「月の光は昔と同じですが」となりそうです。そして、続く「栄枯は移る世の姿」は、「地上においては、栄枯盛衰は一般的な摂理である。」と訳せます。
しかし、この解釈には他説があります。「天上影」の「影」を「over(離れた真上・上方・彼方・奥)」とする考え方です。その意味では「天上影は変わらねど」は「眼に見えない不変天然の力」と訳すことができそうです。
そうなると、もはや「大宇宙の公理」です。それをベースにすると、「人為とは無縁の天然の営みは、今も昔も変わらないが」となり、対語の「栄枯は移る世の姿」は、「(それと同様、)栄枯盛衰は人の世の習いである。」となり、鴨長明の「方丈記」の「無常」の世界のようでもあります。〈次回に続く予定〉
