「豊饒の海」は、文章を綺麗に、ストーリーに起伏を持たせ、大ロマンを謳いあげている本でした。今から45年ほど昔、のめり込んで読んでいたことがあります。
当時の私には、三島の精神状態を手に取るように理解していたつもりでした。第2巻の「奔馬」の中でしきりに表現されていたのは、 『水平線を一望する海を見下ろす小高い丘がある。背に松林があり、その林を縫う風を聞きながら、水平線から今まさに日輪が昇ろうとする瞬間に切腹をしたい。』 という作者の願いです。
そのことから、「三島は近い将来必ず死ぬ」と、直感していました。平岡が切腹した十一月二十五日の朝9時頃、勤務先の事務長との会話で、つい、「三島は近いうちに切腹しますよ。」と語ってしまいました。やはり、Y事務長からは、『そんなことがあるものか』と、笑われます。
その二時間後、再び事務室に入ると、『大変なことが起きた。さっきお前の言ったことが現実となった』と、事務長が興奮しています。ラジオで放送されていたのです。
あれから何十年もずっと考えていました。結局、三島が言いたかったのは、『防衛(まも)らず何の文化ぞや』にあったのではなかったのか、と。
数年前、カナダ、ロシア、ドイツ、フランス等が参戦しない中で、アメリカのイラク攻撃が始まります。 当時、この戦について、日本の歴史を知るアメリカ人が、太平洋戦争で無条件降伏をした日本が戦争反対をしないありかたについて不思議がっていたようです。
『世界最大級の戦禍を、身を持って体験したのは唯一日本であるならば、戦争のもたらす悲惨さを表現すべきであるのに、何故日本はそのことに黙してアメリカに追随するしかないのか。決定的行動は最終的にはどうであっても、意見を言えるのは世界中で日本しか無いのに。』と。
三島が20歳のとき第二次世界大戦が終わります。若い三島は、その汚辱の中で日本の進む道を完全無防備に外国に委ねなければならない状態を歯噛みしていたことになります。三島にしてみれば日本の歴史、伝統、文化、精神、価値観そして魂の喪失であり、三島自身の喪失と思えたのでしょう。
当時、『敗戦後の日本の首相は、代々アメリカ政府によって決められている』、とか、『表面的には見えない部分で日本をはじめとする多くの国々はアメリカによってコントロールされています』、と語る人が多かったようです。
第二次世界大戦で、それまでの日本を崩壊させ、そして日本が見事に生まれ変わったことを見本として、イラク崩壊後の戦後処理のプログラムが組まれたようです。
日本に居る私たちには、このプログラムは、鈍感になる傾向があったようです。しかし、当時、イラクやイラクを注目している多くの国々は非常に敏感にそのことを感じていたようです。
この原稿を書いたのは数十年昔です。数年前には取り上げられていた三島の切腹でしたが、今の地方紙で記事にもならない過去の出来事になっています。しかし、この初雪の頃になると、『防衛らず何の文化ぞや』と慟哭した三島を思い出します。
今日は東京に出張します。花の都は強い雨に叩かれていました。他方、飛行機が着陸した夜の奥州最北端はシトシトとした雨に煙っています。気温は7℃~8℃です。しかし、明日は、最低気温も最低気温も1℃~2℃の予報です。
本格的な冬の序奏です。
当時の私には、三島の精神状態を手に取るように理解していたつもりでした。第2巻の「奔馬」の中でしきりに表現されていたのは、 『水平線を一望する海を見下ろす小高い丘がある。背に松林があり、その林を縫う風を聞きながら、水平線から今まさに日輪が昇ろうとする瞬間に切腹をしたい。』 という作者の願いです。
そのことから、「三島は近い将来必ず死ぬ」と、直感していました。平岡が切腹した十一月二十五日の朝9時頃、勤務先の事務長との会話で、つい、「三島は近いうちに切腹しますよ。」と語ってしまいました。やはり、Y事務長からは、『そんなことがあるものか』と、笑われます。
その二時間後、再び事務室に入ると、『大変なことが起きた。さっきお前の言ったことが現実となった』と、事務長が興奮しています。ラジオで放送されていたのです。
あれから何十年もずっと考えていました。結局、三島が言いたかったのは、『防衛(まも)らず何の文化ぞや』にあったのではなかったのか、と。
数年前、カナダ、ロシア、ドイツ、フランス等が参戦しない中で、アメリカのイラク攻撃が始まります。 当時、この戦について、日本の歴史を知るアメリカ人が、太平洋戦争で無条件降伏をした日本が戦争反対をしないありかたについて不思議がっていたようです。
『世界最大級の戦禍を、身を持って体験したのは唯一日本であるならば、戦争のもたらす悲惨さを表現すべきであるのに、何故日本はそのことに黙してアメリカに追随するしかないのか。決定的行動は最終的にはどうであっても、意見を言えるのは世界中で日本しか無いのに。』と。
三島が20歳のとき第二次世界大戦が終わります。若い三島は、その汚辱の中で日本の進む道を完全無防備に外国に委ねなければならない状態を歯噛みしていたことになります。三島にしてみれば日本の歴史、伝統、文化、精神、価値観そして魂の喪失であり、三島自身の喪失と思えたのでしょう。
当時、『敗戦後の日本の首相は、代々アメリカ政府によって決められている』、とか、『表面的には見えない部分で日本をはじめとする多くの国々はアメリカによってコントロールされています』、と語る人が多かったようです。
第二次世界大戦で、それまでの日本を崩壊させ、そして日本が見事に生まれ変わったことを見本として、イラク崩壊後の戦後処理のプログラムが組まれたようです。
日本に居る私たちには、このプログラムは、鈍感になる傾向があったようです。しかし、当時、イラクやイラクを注目している多くの国々は非常に敏感にそのことを感じていたようです。
この原稿を書いたのは数十年昔です。数年前には取り上げられていた三島の切腹でしたが、今の地方紙で記事にもならない過去の出来事になっています。しかし、この初雪の頃になると、『防衛らず何の文化ぞや』と慟哭した三島を思い出します。
今日は東京に出張します。花の都は強い雨に叩かれていました。他方、飛行機が着陸した夜の奥州最北端はシトシトとした雨に煙っています。気温は7℃~8℃です。しかし、明日は、最低気温も最低気温も1℃~2℃の予報です。
本格的な冬の序奏です。
2012/11/26(月)
22:22
今年も、11月25日になります。平岡公威が切腹した日です。以前にも載せましたが、今年も載せざるを得ませんでした。昔、友人にあてた手紙の原稿です。
昭和46年頃の雑誌に載った詩があります。週刊朝日だったようです。『松枝(まつがえ)に積む春の雪/かくも清顕(きよけ)き 和御魂(にぎみたま)/防衛(まも)らず何の文化ぞや/楯の番長 阿頼耶識(あらやしき)』
横尾忠則が、楯の会の三島(平岡公威)の死を悼み、彼の気持ちを詠ったことになります。三島の作品の「豊饒の海」の主人公「松枝清顕(まつがえきよあき)」を織り込んでつくった詩です。私はこれを次のように訳しています。
『松の枝に降り積もるふわりとした、儚(はかな)い春の雪のように、純粋で優しい心根を持ってはいても、自国を護るためには命をかけて闘います。国の消滅は、同時に文化の消滅であるからです。』と。
若い頃には三島を読む機会がありませんでした。あるとき友人に薦められて「豊饒の海」を読みます。とはいっても、半世紀も前のことです。「春の雪」、「奔馬」、「暁の寺」、「天人五衰」の四巻です。
三島は、この中で次のことをしきりと言っています。『水平線を一望する海を見下ろす小高い丘がある。背には松林があり、その林を、蕭々(しょうしょう)と吹く風を聞きながら、眼前の海に、日輪が今まさに昇ろうとする瞬間に切腹をしたい。』、そのような文章でした。
三島は、その小説の主人公のように切腹します。しかし、実際には、海を見渡せる丘はなく、そして、日輪がまさに昇る瞬間でもない時刻にです。市谷駐屯地総監室で切腹し、同じ盾の会の森田必勝に介錯されます。
森田は三島の首を一刀のもとには落とせなく、数回刀を振り下ろし、更に、別の介錯人の手で首を落とされたと言われています。T地方紙には、床にゴロリと転がっていた三島の首が紹介されていました。
よく見ると、顎には数片の刃こぼれの跡が残っていました。多くの私たちはその写真を美しいものとは見なかったかもしれません。昇る日輪はなく、松の樹陰はなく、耀く海もない環境で切腹します。
しかし、「奔馬」の主人公の「勲」と同じように、正(まさ)に刀を腹に突き立てた瞬間には、三島の瞼(まぶた)の裏には、赫奕(かくやく)とした日輪が昇っていたに違いないのです。
記憶は曖昧になりましたが、この昭和45年の11月の時点では、第一巻の「春の雪」、第二巻の「奔馬」、だけが発売されていたようです。切腹した25日に第三巻の「暁の寺」が堤橋近くの大観堂で発売されることになっていた記憶があります。
そして第四巻「天人伍衰」の原稿は、切腹した昭和45年11月25日に届けられたようです。出版社に納めた後、日本刀を手挟(たばさ)み、初霜を踏みながらから市ヶ谷に向かったと伝えられています。三島の辞世の歌はその瞬間を詠ったものです。
『益荒男(ますらお)が 手挟(たばさ)む太刀(たち)の鞘鳴(さやな)りに 幾歳耐えて今日の初霜』です。
今日の日記は、どぎついものになってしまいました。恐縮します。勿論、右寄りでも左寄りでもない、単なる思い出の一端です。
今日も朝から庭仕事です。この時期、やっても、やっても、やり足りないのが庭仕事です。午後、足りなくした萱を手に入れて、「雪囲い」の続きです。丁度、友人のT氏がお出でになります。即、手伝ってもらいます。
T氏は山に行った帰りです。訊くと、山には殆ど雪は無いそうです。しかし、ムキダケの一部は凍(こお)っていたそうです。ムキダケとエノキダケ(榎茸)をいただきます。
2012/11/25(日)
16:46

今年の初雪は数日前でした。小高い丘では3~4cmほども積もります。しかし、平地ではチラつく程度で済みます。
今朝もチラついています。今冬最も寒い朝です。しかし、朝から庭仕事です。雪が積もる前に、すべき作業が山積しています。当面、お尻に火がついているのは「雪囲い」です。
先週、フレームだけは組んでいます。残る作業は「萱(かや)がけ」です。若い時分には簡単な作業でしたが、今は、相当な気合いが伴います。
助手と二人で作業を開始して間もなく、I氏がお見えになります。別件の用事のためにお出でになったのですが、即、『やりましょう。』と手伝ってくれます。作業内容は、数枚の編んだ萱(かや)の3枚ほどを縄(なわ)で繋ぎ合わせ、円錐形に組んだフレームの上部にかけるだけです。
その際、萱とフレームを縄で結びつけてやります。最後に、萱の上部を縄で縛り、下方に引き下げてやるだけです。高い木の場合には、梯子(はしご)にも乗ります。瞬(またた)く間に6本の囲いを終えます。残り5~6本は明日の楽しみにします。
実は、萱を不足します。数年間も使い続けてきたものです。大分衰えています。1/3ほどはバラバラになり、とても使えるレベルではなかったのです。明日、ホームセンターを物色することになります。「雪囲い」作業には、縄を結ぶ工程が伴います。その結び方には数種類あるようです。状況に応じて使い分けるようです。具体的には、しっかりと締る方法、縄を無駄に使わない方法、解き易い結び方等です。
これまで、数人の方から数種類を教えていただきます。何回教わってもマスターできない世界でした。センスの有無に関係しているようです。特に、「サツマ編み」には参りました。
今日も、I氏から教わります。どうやら、「男結び」というようです。やはり、マスターできない有様です。この種は、何回も練習することでしか習得できないもののようです。
何回も繰り返すことで、やがて、目をつむっても結べるようになり、そして無意識に結べるようになる筈だ、と人は言います。時間のある日の課題として残しておくことにします。
バラけた萱を扱った庭を掃除するには、気力と時間を要します。萱というのは、どんなに拾っても拾いきれないもどかしさがあります。ある程度で妥協します。萱は、適当な長さに折ってストーブで燃やします。勢いよく燃えます。しかし、延々と続く作業です。
写真の「石灯籠(いしどうろう)」は「濡鷺(ぬれさぎ)」です。6尺以上もあります。奥州最北端の雪は、この濡鷺も埋め尽くしてしまいます。作業中、鮎川いずみの歌を思い出します。
『・・・春とおもえば夏が来て 夏とおもえば秋が来て・・・』です。平尾昌晃作曲、石坂まさを作詞の歌です。必殺仕事人Ⅲのテーマ曲の「冬の花」です。全体の歌詞は思い出せませんが、このフレーズだけは記憶に残っています。意味は、『結局は、冬になる。』、ということのようです。
I氏のおかげで「雪囲い」の80%を終えます。有難いことです。ここまでくれば、いつ雪が積もっても対応できそうです。
2~3前に「収穫祭」がありました。会場は、奥州屈指の老舗(しにせ)旅館の大広間です。楽しいひと時でした。恒例となった「ジャンケン大会」は今年も盛況でした。景品は、ポケットティッシュケース、名刺入れ、俎(まないた)、石鹸箱、肩もみ器、他にペンダント、夫婦茶碗、小鉢等です。焼き物はI氏の奥方の作品です。他はI氏とKUROOBIの作品です。
「俎」を獲得したご婦人がご挨拶にきます。昨年の収穫祭で、「青森ヒバの下駄」を射止めた方でした。ジャンケンに強い方なのかも知れません。実際、『ジャンケンでは負けたことが無いのです。』、と言います。不思議です。
しかし、他方、ここ3年、景品を手にしていない方もいるようです。或いは、参加者全員にいきわたる数の景品を出すべきなのかも知れません。来年の課題として温めておくことにします。あと12ヶ月あります。解決しそうです。来年はW氏も参加するようです。楽しみです。
2012/11/24(土)
16:47

昨晩はたくさんの皆さんとお会いします。いつもお世話になっている方々です。ありがたくも楽しい一時でした。つい、度を過ごしてしまいます。遅い帰宅になります。
しかし、今日は、早朝の起床です。実は、地元の旅館とホテルから納品を迫られています。泊人(とまりと)に提供する「青森ヒバ」のお土産です。下拵え(したごしらえ)は終えていますが、完成までには6~7時間を要します。
その他に予定しているものがあります。来週21日に使う作品づくりです。これは、収穫祭の景品です。何をつくるかを迷っていました。先週までは「下駄」のつもりでした。しかし、今朝になって気が変わります。
「俎(まないた)」にします。この心変わりにはいくつかの理由があります。正月に、新しい「まないた」を使っていただきたい、の思いがそのひとつです。他に、腕を磨くための稽古のためです。実は、以前、サンプル的なものはつくっています。しかし、100%の満足を得られていなかったのです。
板に脚をつけるだけの簡単な作りです。しかし、素人には厄介な加工です。鉋がけ(かんながけ)と脚の接合です。使う材料は「青森ヒバ」です。木の目が交差している部分があることから、「逆目(さかめ)」になる箇所が出ることもあります。
それ以前に、鉋の刃が鈍くなっている所為もあります。実は、スペアの刃はあるのですが、交換する心の余裕が無いのです。妥協の連続です。
板と脚の接合を「蟻組(ありぐみ)」にします。正確には「蟻形追入れ接ぎ」という「組接ぎ(くみはぎ)」のようです。よく解りませんが、この名前の謂(い)われは、蟻が頭を寄せ合っているように見えるからのようです。何とも風流な名前です。
完璧な「蟻形追入れ接ぎ」には稽古を要します。雄(オス)と雌(メス)の寸法に、紙1枚もの誤差があってはフィットしないことになります。昔の大工さんは、この加工を鑿(のみ)、鋸(のこぎり)、鎚だけで熟(こな)していたようなのです。想像を絶する世界です。
しかし、今は、ルーター等の優秀なツールや治具(じぐ・jig)があります。それでも、満足する結果を得るには至っていなく、その不満足さに、悶々とした時間を生息しています。それを払拭するための、「下駄」から「まな板」への心変わりであったことになります。気合を入れたつもりでしたが、今日の出来は70%程度です。悶々とした日々はまだまだ続くことになります。
やはり、午後からは、強い風に乗って雪が舞います。残した「雪囲い」の作業は日を改めることになります。少し心配です。実は、昨年は、この段階で根雪になります。小春日和の翌日から真冬になり、除雪車が出動します。結局、萱で覆うことはできませんでした。ま、今年は何とかなる筈です。
2012/11/18(日)
16:23

ついにタイヤ交換の季節になります。タイヤ交換、というのは、自動車の夏用タイヤから、雪でも滑りにくい冬用のタイヤに交換することです。
とはいうものの、今冬は交換不要です。実は、今年はお勤めしたことから時間がとれず、昨冬から夏中、履きっぱなしのスノータイヤだったのです。この余裕は、皆さんから呆れられたことに耐えたご褒美のようなものです。
しかし、「雪囲い(ゆきがこい)」には焦ります。ご近所には、既に1ヶ月も前に終えているお宅もあります。そろそろ限界のようです。早朝から遅ればせながらの冬自宅に挑みます。
庭は、やがて2mほどの雪に埋まります。そのことを想像しながら、雪の下に置いたままでは困るものを移動させます。また、一旦「雪囲い」を終えると、そのフレームが邪魔になり、フットワークに支障をきたします。簡単な「雪囲い」ですが、その手順にはそれなりの、効率的なストーリーを要します。
まず、植木鉢を大きい木の根元に移動させます。庭の隅に積んでいる園芸用の土や肥料、バケツ、草刈り機等を物置に収納します。他に、ベンチやテーブルを四阿(あずまや)の屋根の下に運び入れます。
そして3ヶ所に住まわせているメダカの引っ越しです。これまで蹲(つくばい)で活躍していましたが、冬には蹲の水がカチンカチンに凍ってしまうのです。かわいそうです。水槽に移して室内で越冬していただきます。
実際の「雪囲い」作業の前には、あれやこれやの1時間以上ものイントロダクションが伴います。そして愈々フレームの組立です。この組立にはさまざまな方法があるようです。さまざま試してきました。しかし、ここ数年、ようやく一つの方法に落ち着きます。それは、3本の柱の上部を荒縄で縛り、それで三脚をつくるやり方です。縛った3本を立てて、1本ずつ同一方向にずらしてやると安定して三脚になります。それを木の大きさに応じて脚を開いてやるだけです。
柱は結構な重量です。ウェイトトレーニングの連続です。老骨には厄介な作業です。しかし、ここまでくれば後は簡単です。三脚の位置に納得した後、数本の柱を凭(もた)せ掛けてやるだけです。一段落するまでに6時間を要します。
しかし、「雪囲い」としては道半ばです。この三脚を萱(かや)で覆って完成です。この最終段階は、日を改めることになります。明日は雪の予報ですが、初冬とはいっても、小春日和の土日はありそうなのです。
これまで濃い赤であった「紅枝垂れ紅葉(べにしだれもみじ)」の葉が「錦」を呈しています。話は飛びますが、本来、この「錦(にしき)」は「絹織物(きぬおりもの)」のことのようです。金色や銀色等のさまざまな色糸を使った織物のことです。
武島羽衣(たけしまはごろも)作詞の滝廉太郎の「花」の3番に「錦おりなす長堤に・・・」があります。この意味は「長く続く堤は、美しい錦の織物のように見える・・・」の意味のようです。他方、高野辰之がつくった「紅葉(もみじ)」の2番にも「錦」が使われています。「・・・赤や黄色の色さまざまに水の上にも織る錦」です。同じ「錦」を、一方は春、他方は秋で使っています。「錦」は、やはり、絢爛(けんらん)の代名詞なのかも知れません。しかし、例年の「紅枝垂れ」は、この錦の直後に散ります。
多くの木々が葉を落としている最中に、日に日に逞しさと緑を誇っているのは「山葵(わさび)」です。山葵の緑は春と秋に見ることができます。或いは、旬なのかも知れません。
2012/11/17(土)
15:14
今日も暗いうちから工房に籠ります。このところ手をかけている「箱のようなもの」の完成を目指します。組立てた数は30個以上もあるようです。当たり前のことですが、1個に費やす時間は一瞬であっても、30個となると、×30です。このような作業は楽しみながらでなければ集中力が途切れてしまいます。コツコツとした作業の末に結果が生まれることをイメージすることが基本のようです。
今日は、裏山の散策の日です。実は、昨晩、T氏がお出でになり、『歩かなくても良い場所を見つけました。明日行きましょう。』、と誘ってくれます。テーマは「ムキダケ(剥茸)」と「エノキダケ(榎茸)」です。
作業を一段落させて、裏山に出かけます。車で数分の場所です。「エノキダケ」は、車から5mほどのところにダーッと生えています。しかも、手ごろな大きさです。敷物を敷き、座って収穫します。スーパーにはいつもあるキノコです。モヤシのように束ねられています。しかし、山のものは、スネ(茎)部分が黒くなっています。
まだ、マッチ棒の先ほどの小さいものがグジャグジャと倒木についています。「エノキダケ」の別名に「ユキノシタ(雪の下)」があります。文字通り、降り積もった雪を掻き分けて収穫できるキノコです。このエノキダケのシャキシャキ感が良いです。プロの皆さんはナメコ以上としているキノコです。豆腐汁、酢のもの、そして鍋に適しています。特に、キリタンポ鍋が絶品のようです。
帰宅後、工房に入ります。「箱のようなもの」を完成させることにします。この「箱のようなもの」、というのは、以前ご紹介した「ポケットティッシュボックス」のことです。ちょっとした贈り物に良さそうなのです。
作業のツールはサンダーが主になります。木地が完成した後に焼印を押します。そして、フィニッシュは塗りです。実は、これまでのサンプルには塗装を施していませんでした。しかし、時間を経ることで手垢(てあか)が気になります。やはり、塗ることにします。
塗料は「木固めエース」です。本来は庭での作業です。シンナーの匂いのためです。しかし、午後の外はザワザワしています。工房内の作業になります。やはり、クラクラします。塗って数時間後、再びサンダーをかけます。拙いものの、何とか間に合ったようです。明日は「下駄づくり」に挑戦することになりそうです。
時間を惜しんで心と体を鍛えた土日でした。これで明日から1週間を乗り切ることができそうです。
2012/11/11(日)
16:54