今年も、11月25日になります。平岡公威が切腹した日です。以前にも載せましたが、今年も載せざるを得ませんでした。昔、友人にあてた手紙の原稿です。
昭和46年頃の雑誌に載った詩があります。週刊朝日だったようです。『松枝(まつがえ)に積む春の雪/かくも清顕(きよけ)き 和御魂(にぎみたま)/防衛(まも)らず何の文化ぞや/楯の番長 阿頼耶識(あらやしき)』
横尾忠則が、楯の会の三島(平岡公威)の死を悼み、彼の気持ちを詠ったことになります。三島の作品の「豊饒の海」の主人公「松枝清顕(まつがえきよあき)」を織り込んでつくった詩です。私はこれを次のように訳しています。
『松の枝に降り積もるふわりとした、儚(はかな)い春の雪のように、純粋で優しい心根を持ってはいても、自国を護るためには命をかけて闘います。国の消滅は、同時に文化の消滅であるからです。』と。
若い頃には三島を読む機会がありませんでした。あるとき友人に薦められて「豊饒の海」を読みます。とはいっても、半世紀も前のことです。「春の雪」、「奔馬」、「暁の寺」、「天人五衰」の四巻です。
三島は、この中で次のことをしきりと言っています。『水平線を一望する海を見下ろす小高い丘がある。背には松林があり、その林を、蕭々(しょうしょう)と吹く風を聞きながら、眼前の海に、日輪が今まさに昇ろうとする瞬間に切腹をしたい。』、そのような文章でした。
三島は、その小説の主人公のように切腹します。しかし、実際には、海を見渡せる丘はなく、そして、日輪がまさに昇る瞬間でもない時刻にです。市谷駐屯地総監室で切腹し、同じ盾の会の森田必勝に介錯されます。
森田は三島の首を一刀のもとには落とせなく、数回刀を振り下ろし、更に、別の介錯人の手で首を落とされたと言われています。T地方紙には、床にゴロリと転がっていた三島の首が紹介されていました。
よく見ると、顎には数片の刃こぼれの跡が残っていました。多くの私たちはその写真を美しいものとは見なかったかもしれません。昇る日輪はなく、松の樹陰はなく、耀く海もない環境で切腹します。
しかし、「奔馬」の主人公の「勲」と同じように、正(まさ)に刀を腹に突き立てた瞬間には、三島の瞼(まぶた)の裏には、赫奕(かくやく)とした日輪が昇っていたに違いないのです。
記憶は曖昧になりましたが、この昭和45年の11月の時点では、第一巻の「春の雪」、第二巻の「奔馬」、だけが発売されていたようです。切腹した25日に第三巻の「暁の寺」が堤橋近くの大観堂で発売されることになっていた記憶があります。
そして第四巻「天人伍衰」の原稿は、切腹した昭和45年11月25日に届けられたようです。出版社に納めた後、日本刀を手挟(たばさ)み、初霜を踏みながらから市ヶ谷に向かったと伝えられています。三島の辞世の歌はその瞬間を詠ったものです。
『益荒男(ますらお)が 手挟(たばさ)む太刀(たち)の鞘鳴(さやな)りに 幾歳耐えて今日の初霜』です。
今日の日記は、どぎついものになってしまいました。恐縮します。勿論、右寄りでも左寄りでもない、単なる思い出の一端です。
今日も朝から庭仕事です。この時期、やっても、やっても、やり足りないのが庭仕事です。午後、足りなくした萱を手に入れて、「雪囲い」の続きです。丁度、友人のT氏がお出でになります。即、手伝ってもらいます。
T氏は山に行った帰りです。訊くと、山には殆ど雪は無いそうです。しかし、ムキダケの一部は凍(こお)っていたそうです。ムキダケとエノキダケ(榎茸)をいただきます。