これまでこの日記のタイトルは「春のイントロ(introduction)」でした。しかし、奥州北端も既に「春」の様相です。もはや「夏のイントロ」とすべきのようです。気合の入るところです。
昨日も早朝から雨です。春の雨は極めて歓迎するところです。しかし、風は強く、年に一度あるかないかの程度でした。
「椎茸(しいたけ)」の「榾木(ほだぎ)」をつくっているところです。しかし、覆(おお)っていたシートは、この強風に剥(は)がれて飛んでいました。「草取り」等の「畑作業」も遠慮を余儀なくさせられています。
今日は、ひっそりと「工作室」に籠(こも)り、工具の確認や整理整頓を楽しみます。
三島はベラフォンテの1960年?日本公演の講評をしました。その三島の絶筆が「豊穣の海」でした。「豊穣の海」の第一巻「春の雪」は『きっと逢う。滝の下で。』で終わっていたようです。これは、第二巻の「奔馬」のストーリーを見込んでの、主人公「松枝清顕」が「本多」残したメッセージのようでした。
『水平線を一望する海を見下ろす小高い丘がある。背には松林がひらけている。座し、その松林を縫う松風の音を聞きながら、日輪がまさに上がらんとする瞬間に切腹したい。』が「清顕(のちの勲)」の夢のようでした。
しかし、三島が逝(い)った日の市谷駐屯地総監室には、気高い松の樹陰はなく、海を見渡す丘はなく、昇る日輪も耀(かがや)く海もなく、その時刻も「日輪のまさに昇る瞬間」ではありませんでした。
そして、新聞で報道されたゴロリと転(ころ)がった三島の首は美しいものには映らなかったかもしれません。しかし、刀を腹に突き立てた瞬間、彼には、日輪が赫奕(かくやく)と昇る瞬間であったに違いないのです。
記憶は曖昧になっていますが、その時点では、「第二巻(奔馬)」は既に発売になっていたようです。第三巻「暁の寺」は25日当日に堤橋近くの大観堂で発売されることになっていた記憶があります。
そして、25日当日、最終巻「天人五衰」の原稿を出版社に納めてから市ヶ谷に向かったと伝えられています。
彼の辞世の歌は2首ありました。その1首が、『益荒男(ますらお)が手挟(たばさ)む太刀の鞘鳴(さやなり)に幾歳耐えて今日の初霜』です。重複しますが、後年、横尾忠則がつくった歌には、「豊饒の海」の主人公、松枝清顕の名前「松、枝、清、顕」の四文字が織り込まれていました。
『松枝(まつがえ)に積む春の雪/かくも清顕(きよけ)き/和御魂(にぎみたま)/防衛(まも)らず何の文化ぞや/楯の番長/阿頼耶識(あらやしき)』。
これを次のように訳しました。『松の枝に降り積むふわりとした儚(はかな)い春の雪のような、純粋で優しい心根を持ってはいても、自国を護るためには命をかけて闘います。
外圧に犯され、抹殺されることは、自身の思想と文化の抹殺と等しい。自国を護ること無しに自国の文化を論じることは意味を持たない。』 今のウクライナやイランが思い浮かびます。
その三島が、ニューヨーク・黒人街ハーレム生まれのハリー・ベラフォンテの歌を評しました。『彼の歌には・・・カリブ海の貿易風、奴隷の悲痛な歴史・・・がある。』と。それは市ヶ谷の2年前だった筈です。
三島は1926年(昭和元年)生まれです。生存していれば今は100歳です。それでも今なお、白い手袋の拳(こぶし)を振り上げ、『防衛らず何の文化ぞや』と語っている姿が浮かんできます。