
今日から雪だ、と何回も聞かされています。昨日まで、そのつもりで作業をしています。しかし、今朝は綺麗な朝焼けです。午後からは雨になりましたが、午前中は理想的な作業日和です。
即、雪囲いを断行します。開始時刻は7:30頃だったようです。これまで何日かを要して掃除はしています。今日の作業内容は、純然たる雪囲いだけです。
まず、それぞれに、丸柱3本を結わえて立てます。その後、それらに別の柱を凭(もた)せ掛けて補強します。
話は飛びますが、柱の重さは毎年変化します。軽くなるのです。最初は水分を含んだ、重い生木(なまき)です。それが年ごとに乾燥が進み軽くなるのです。とはいうものの、50本ほどもあります。結構、ハードな筋力トレーニングです。
次は、その柱をカヤ(ヨシズ)で覆う作業です。ところが、予定していたヨシズの大半が腐っています。使い物にならなくなっています。夏分の管理が粗末であったことになります。順調に進んでいた作業でしたが、途中で水をさされます。
即、近くのホームセンターに行き、調達します。しかし、その頃は既に小雨です。続きの作業は次回に延期です。雪の中の作業は良いのですが、雨のときは気が進まないのです。
午後、ラチェットの取扱いを確認します。荷締機です。実は、額のフレームの締め付けに考えています。初めて使う代物です。様子がまったく解かりませんでした。単純そうに見えますが、結構複雑な構造です。一昨日は11月25日でした。この日記で毎年触れています。今年は遠慮するつもりでした。しかし、今年に限って、でしょうか、新聞はじめ、どのマスコミにも取り上げられていなかったようです。
2日遅れ、ながらも、三島に触れざるを得ませんでした。実は、昭和45年11月25日午前9:00、お勤め先の事務室で、「彼は間もなく切腹する筈です。」と、語っていたのです。
皆さんからは笑われました。しかし、それから間もなくの市ヶ谷です。おそらく、当時、「豊饒の海」を読んでいた多くは、そのことを予測していた筈です。『蕭々(しょうしょう)とした松風の中、将(まさ)に昇らんとする日輪・・・』が、しばしば出てきていたのです。強烈に記憶に残る11月25日だったのです。
昔、この頃、毎年、京都や奈良に行っていました。そして、観光バスのガイドさんに、「月修寺はどのあたりにあるのでしょうか。」と、訊いたものです。勿論?ガイドさんの答えは『解かりません。』です。
無理な質問であることは解っていたつもりです。普通に考えると、「月修寺」は小説の中だけの存在のようなのです。仮にあったとしても、4000ほどもある寺です。法隆寺は知っていても、「月修寺」まで覚えていることは考え難いです。
また、バス会社の講習でも「豊穣の海」を取り上げることは考えにくいです。それでも訊き続けてきました。はじめから、その答えが『解かりません。』であることを知っていながら、です。
しかし、数年前、そのモデルが実在することを知ります。奈良の円照寺と言われています。地図を見ると法隆寺の近くです。天理も傍(そば)のようです。電車では帯解駅下車のようです。「豊饒(ほうじょう)の海」の第一巻で松枝清顕(まつがえきよあき)が本多に言った、『きっと会う。滝の下で』、そして、第4巻の「天人五衰」で本多が思った、「漆の盆に吐きかけた息の曇りが・・・」と、聡子の『それも心々ですさかい』をもう一度確認したくなります。
話は飛びますが、清水寺の石段を登りきる数軒前の左側に、細い小路があります(?した)。そこを、渡り石に従って進むと、高低差のある立体的な庭が開けています。「鰊蕎麦(にしんそば)」を初めていただいた処です。今から40年以上も前のことです。
その店が、今でもあるかどうかを確認したくなっています。京都は冬が(も)良い、とも聞いたことがあります。奈良とともに、是非、もう一度、行ってみたくなっています。
2013/11/27(水)
17:16